Réalisation ॐ

永遠の相のもとに 〜 Sub specie aeternitatis 〜

原作者と「統治の倫理」

なんかトラブルが起きているな〜と芦原先生のブログを見に行った後だったので、突然の訃報には言葉を失いました。その後「セクシー田中さん」第7巻まで一気読みしました。

恋愛モノのようでありながら、登場人物それぞれが影響を与え合いながら変わっていく伏線、性別や年齢を越えた信頼の感情描写に引き込まれました。縦横にエピソードを張り巡らせた設定が緻密で、構想にかなり労力を割かれたのではないかと・・・それだけに未完で終わってしまったのは残念でなりません。ご冥福をお祈りします。

様々な意見を目にして、思うところ多々ありました。ドラマ制作ではありませんが、版権を「管理する側/使わせて頂く側」双方を務めた経験から、ここでは「構造的」な問題について提起します。

二つの道徳体系

ぼく自身がジレンマを抱えた中で出逢ったジェイン・ジェイコブズ「市場の倫理 統治の倫理」を紹介します。人間社会の歴史には、この二つの道徳体系が伝統的に存在しています。(項目として列記されているもので、左右が対応する関係にはなっていません)

前提として、出版社やテレビ局の社員は「統治の倫理」、漫画家や脚本家など個人事業主は「市場の倫理」と異なる道徳体系に置かれていると考えられます。

ご覧の通り「統治の倫理」からは新しいもの、面白いものは生まれにくいため、制作現場に近いところでは「市場の倫理」を取り入れざるを得ません。企業が「統治の倫理」を強化した場合、管理部門のリスクは小さくなりますが、現場の融通が効かなくなります。

予算は「原作の執筆→書籍の出版→映像の制作」とワークフローの下流ほど大きく膨らむため、経済的な理由から影響力は逆流しがちです。定量的に管理できる視聴率やスポンサーからの予算獲得と違って、定性的な原作者の対応などは関係者の「姿勢」や「意識」に委ねられます。

現場が動き出せば時間の余裕はなくなるので、事前にコミュニケーションを十分に取って、信頼関係を構築しておくことが大切です。しかし、それはあくまでも「市場の倫理」寄りの発想で、「統治の倫理」下の優先度は必ずしも高くありません。

ジェイコブズは、双方の「いいとこ取り」は不正の原因になると解説しています。確かに、職権濫用などで不正が生じるケースを考えると正しい教訓に思えますが、それでは「組織人としてクリエイティブな成果を上げるのは無理」という結論が導かれてしまいます。

こういったジレンマを乗り越える具体策は、ジェイコブズも明快には提示していません。つまり、あらゆる組織が「永遠のテーマ」として、この問題に現在も取り組んでいるのです。(クリエイティブ産業でなくても、イノベーション創出の条件などで語られる構造的な問題は全く同じです。)

動機(目的)と倫理観の自己管理

ここからは、ぼく個人の見解になります。確かに、利己的な動機の「いいとこ取り」は不正の温床になりますが、クリエイティブな動機による「いいとこ取り」からは、必ずしも不正が生じるわけではありません。

つまり、動機(目的)が正しく、倫理観の自己管理(判断)ができる人であれば、組織人でも「市場の倫理」で動くことに何も問題はないのです。今回の問題の再発防止には「(不正行為は厳罰に処される前提で)現場の裁量権を高める」 方向性の制度見直しがプラスに働きます。逆に「〜せよ」と管理を強化する方向性に進むようでは本末転倒です。

企業として現場の自由度を高めるには、大勢いる制作スタッフの信用を評価し、それに対して責任(=リスク)を負わなければなりません。業務の本質を理解していないと評価やマネジメントはできませんから、クリエイティブ部門の出身者を引き上げる流れにつながります。

表面的には単純な「組織の壁を越えたコミュニケーション」の促進も、管理部門にとっては「統治の倫理」を揺るがす主導権争いに発展しかねません。調査委員会からの提言にも、社内政治の影響は反映されるでしょうから、部外者が納得感を得られるものになるかは難しい部分もあります。

このあたりは「社風」というか、バランスを考えてうまくやっている出版社や放送局もあるようですので・・・成功例を参考にしながら良い方向に進めて頂けるように期待しています。