Réalisation ॐ

永遠の相のもとに 〜 Sub specie aeternitatis 〜

禅の世界

 十数年ぶりに訪ねた親類の家で突如、由緒ある「尺八」とそれを頂いた方について書かれたものだという本が出てきました。尺八には興味はありませんが、ざっと目を通して興味を引かれたこの本を頼んで借りてきました。

「高橋空山居士の世界」著:白上一空軒

 高橋空山という偉人が極めた四つの世界について紹介した本で、いささか構成は散漫な印象でしたが、「剣の世界、禅の世界、書の世界、音の世界」それぞれの世界から引用されたエピソードと、そこから紡ぎ出される一本筋の通った世界観には非常に共感を覚えました。
 実際問題として、我々は修行の場にいるのではありませんが、少なくとも自分自身が考えるマネジメントの肝が、そこに網羅されている気がしてなりません。

 戦時中、日本の古武術と日本刀研究の権威であった成瀬関次氏は、日本の古伝剣法を三つに分類し次のように記している。

・第一は、即ち陽に構え、陽に発して陰に堕つる間に敵を討たんとする「陽の流儀」(先先の先を理想とするもの)
・第二は、陰に構え、陰に発して陽に働く間に仕留めんとする「陰の流儀」(後の先を理想とするもの)
・第三は、陰陽の中をとり、晴目、無念無想のうちに事を叶えんとする流儀(先後を意中におかぬもの)
 (中略)
 これは、常に敵情を偵察しながら進んでいって、機を見て戦うという即ち陰流の戦法で、陰流は、ただ単に受身の消極的なものと見るべきではない。

 解説文の中で出てきた「陽中の陰、陰中の陽」という概念を、最近はビジネスの現場で意識させられることが多く、組織によって異なるこういった「場の空気」みたいなものを経験的に読み取れるようになってきた気がします。

 沢庵和尚が柳生宗矩に与えた書として有名なものに「不動智神妙録」や「大阿記」などがある。いま、その要旨を現代語によって記せば、次のごとくである。


 禅(仏教)においても、剣の道においても、一番大事なことは、その心の持ちようである。
 禅の場合も、剣の場合も、その対象に対する心構えにある。心の最高の状態というのは、何ものにもとらわれることなく、円滑に応じられることである。
 心が、何か一つのことにとらわれると、自由な動きがとれなくなって、あるがままの自分を発揮することができなくなってしまう。この動きがとれなくなった情況を「迷い」という。

 高尚な事業計画を掲げたところで、その実行面での問題が大きいのが実情ではないでしょうか。組織の「状況」を生み出すのは構成員の「情況」であり、アウトプットにこだわればこだわるほど「心構え」の重要性を痛感させられます。

「剣、禅、書」とくれば、やはり登場するのは山岡鉄舟。本人が記した無刀流についての解説です。

 無刀とは、心の外に刀なしということにして、三界唯だ一心なり、内外本来無一物なるが故に、敵に対する時、前に敵なく、後に我なく、妙心無方、朕跡を留めず、是余が無刀流と称する所似なり。

 無刀流剣術は、勝負を争わず、心を澄し胆を練り、自然の勝を得るを要す。
 敵と相対する時、刀に依らずして、心を打つ、是を無刀と謂う。

 「刀に依らずして、心を打つ」の部分に、その極意が見て取れます。

 自分自身に置き換えて考えれば、先陣を切って大ナタを振り回した時期を経て、刀に依らず心を打つマネジメントが何であるかようやく見えつつあるといったところでしょうか。
 斬って斬って斬りまくって、何も残らなかった、という苦い経験を踏まえた上で。