Réalisation ॐ

永遠の相のもとに 〜 Sub specie aeternitatis 〜

上根、中根、下根

 お釈迦様が悟りを開いた時に、悪魔が現れて「このままあっちの世界に行っておしまいなさいよ」と囁いたらしいです。この時に現世に留まる決意をお釈迦様が述べたと言う「水面と蓮」の例え話があります。

既に水面から高く出た蓮も、深く泥に潜ったままの蓮も変えることはできない。ただ、今まさに水面から出ようとしている蓮のためにはやれることがあるから、まだそっちには行かない。

 確かこんなニュアンスだったと思います。
 これが真実の出来事だったか、文献の正しい記載がどうかはともかくとして、教育研修関連の仕事で課題に直面した時には、よくこのエピソードが頭をよぎります。

 何かしら履修状況や理解度、意欲などをアンケートや面談で把握してまとめてみると、母数に関係なく集団は3つ或いは4つのグループに分かれるものです。
 通常は中間レベルに合わせて後半のプログラムを考えていきますが、そんな時に人間の本質がお釈迦様の時代から変わらない(変えられない)ということを感じて、肩の力が抜けるような感覚を味わいます。

 日本以外の国の人々と仕事をしていても全く同じ経験をさせられるので、これは万国共通の事象でしょう。

 子曰 中人以上 可以語上也。中人以下 不可以語上也。

 中人という表現で「論語」にも登場しますが、これを「教えてもムダ」といった諦めの材料にするべきではありません。

 幼児を対象にした知育系の仕事では、年齢が1歳違うだけで理解度が全く違ってきますから、幼児本人の資質云々よりも経験値(発達)に合わせた相対的な判断が細かく求められます。
 これは幼児に限らず「受け取り手に合わせてこちらがスタンスを変える」といった大人同士にも通じるコミュニケーションの基本だと思います。

 教育研修関連の現場に話しを戻して考えてみると、それぞれの層(受け取り手)に合わせた施策を講じれば、それぞれの層ではそれぞれの成果が得られ、そうして全体を網羅してしまえば「全体のパフォーマンス」を向上させることは比較的容易です。

 但し、実際にそういった望ましい成果を得られる現場は少ないように見受けられます。それはコストの問題以前に、教育者側、或いはマネジメントする側に「受け取り手に合わせてスタンスを変える」ことを「勝ち負け」といった感覚で受け止める風潮があるためです。
 指導者側の理想や美学を貫くには、それができるような環境整備が先に必要ですが、その現実との矛盾を「受け止めない」ことを「信念」みたいなもので正当化されてしまうケースが少なくありません。

 実は、教育研修の成果は、この段階でほぼ決まってしまいます。

 自分自身にとってはクライアント筋になるわけですが、そちら側にもいろいろなタイプの方がいることからは逃れられません。ここでも常に「受け取り手に合わせてこちらがスタンスを変える」ことが試されます。
 現場のオペレーションと違って、強制力を行使できないここが最大の難関であり、そこを乗り切ってしまえば成果が出るのは時間の問題です。そこでの「あの手この手」を基準に考えると、現場でのオペレーションはいとも簡単なものに思えてきます。