Réalisation ॐ

永遠の相のもとに 〜 Sub specie aeternitatis 〜

上野:空海と密教美術展

 西安でのプロジェクトがようやく軌道に乗り始め、その準備で帰国したら日本では「空海と密教美術展」をやっていました。

 こういうのを「ご縁」と言うのでしょうか。

 物事を科学的に、論理的にひも解こうと心掛けると、世の中は非科学的で、非論理的に動いているものだと思い知らされます。

 頂いた「ご縁」に逆らわず、空海の業績を堪能してきました。

 自分にとってしっくり来るのは「禅の世界」で、実は密教には全く興味がありませんでした。むしろ仏陀偶像崇拝を禁じていた説に信憑性を覚えてからは「伝統的な仏教ビジネス」を信仰心だけでは見れなくなってしまいました。共感を覚えるのは、道元の姿勢です。

 その一方で、西安で仏教寺院の衰退を目の当たりにしたことで、空海の「仏教ビジネス・プロデューサー」としての力量を認識させられて、特に経歴の「遣唐使の任期20年を僅か2年で切り上げて帰ってきた」あたりの経緯には(一抹の疑念もあって)興味シンシンです。
 また「曼荼羅で悟りを理解しよう!」というアプローチは、図解や見える化といったナレッジマネジメントのノウハウに通じるもの、ますます信仰というよりは教育ビジネスに近いスタンスに感じられるのです。
 そういう点からも(真摯な信仰とは少し違った動機で)空海について、もう少し知りたいと思っていました。

 ・・・ということで「空海密教美術展」。

 先日、所用の帰りに寄ったら「唐伝来の法具」の重量感にハマッてしまい(あの『伝説の飛行三鈷杵』も拝見しましたが、伝説の真相はさておき、やはり土産モノとは訳が違うw)気がつけば平日は5時閉館、後半は駆け足になって後ろ髪を引かれる思いで終盤の仏像コーナーを出る羽目になり、改めて休日に出直してきました。

 中国の博物館も見応えはありますが、不幸な歴史のせいで石像しか残っていないのか、気づけば経年劣化した木製の像は見た記憶がありません。皮肉にも日本でしか、この深い質感や木彫の繊細さには出会えないのです。
 唐伝来の国宝『諸尊仏龕』など、許されるならば持ち帰って、毎日眺めて暮らしたいくらいでした・・・。

 圧巻だった東寺の仏像群、密教そのものに興味を感じられなくても密教美術には強く惹かれます。見ていて全く飽きないのです。
 特に「金剛法菩薩」は完璧!!非の打ち所がなく、見とれてしまいました。
 その斜め後方、微妙に表情が違う気がした「金剛業菩薩」は、塗装の劣化がそう感じさせるのか、右目の周辺が吊り上って「にやけている」、笑ってはいけないお堂の中で「笑いをこらえている」表情に見えて、微笑ましく思えたのは自分だけでしょうか?

 書家としての期待は、ものの見事に裏切られました。展示物は細かい文字の巻物ばかり、ことわざのイメージから勝手に大胆な筆運びの掛け軸などがあると思っていたもので・・・。
 ただ逆に、その全くエンタメ性?の感じられない書から、空海という人物に対する自分の中のイメージが変わって、偏見を持たずに知識を得ようと反省しているところです・・・。

 中国では、美術館・博物館では自由に写真撮影できるので、うっかり撮影したい衝動に何度も駆られてしまいました。ヤバいヤバい。でも、毘沙門天に踏みつけられる下僕クンたちを撮影して唐の下僕クンたちと比較したかった・・・(お茶目さでは圧倒的に本場の勝利!

 また来月から西安に戻る予定ですが、よい休日の探索テーマが出来ました。