Réalisation ॐ

永遠の相のもとに 〜 Sub specie aeternitatis 〜

自由の合理性

今年のGW中は、ずっと先延ばしにしていたフリードマンに目を通しました。

自分としてはハイエクあたりのポジション(当時の集産主義に警告した、いろいろと条件付きの自由主義)に納得感、一応の落ち着きが得られたのですが、より先鋭的な自由主義リベラリストリバタリアン)の考え方も「敵を知る」という意味で理解しておいた方が良いだろうと。

格差の拡大を容認した?「新自由主義」の提唱者として、フリードマンの主張には反感を覚えた方がスッキリできたのですが・・・なぜか共感する点が多く、経済思想の評価軸について見直さなければならなくなりました。(競争の結果に対する救済策、教育の機会平等など、予めセーフティーネットが用意された上での「自由競争」には基本的に賛成です。)

ハイエクもそうでしたが、フリードマンも大きく誤解されてません???「新自由主義」そのものも、正しく理解されないまま対立軸からバッシングされている気がします。

客観的に考えてみると、ぼくは自動制御のフィードバック回路のように組織をマネジメントしてきました。正しいデータ(情報)が相互作用し合う組織の体質は「自由である」と解釈できます。いや、自由でなければ成立しません。一方で安定したシステムの運用には、外部とのエネルギーの出入り、挙動に関する多くの制約も必要になります。

こうしてイデオロギーとは全く無関係に「自由には厳しいルールが伴う」感覚を身につけ、その世界観をつくってきましたが、経済合理性の追求は功利主義(最大多数の最大幸福)的でもあり、変化に対応する臨機応変さはプラグマティズムに通じます。そういった流れからすると、ぼくが「自由至上主義者:リバタリアン」であることには何の矛盾もないようです。

政治的・経済的な思想から考えるとよくわからなくなりますが・・・イデオロギーありきでなくケースバイケース、是々非々?で最適解を探るような現代経済学の流れ(経路依存性を考える新制度派、シミュレーションに近い計量経済学など)が自分にはしっくりきます。もちろん、そこにも完璧な予測やコントロールは存在せず、人間の合理性の限界や不確かさ、認識論の問題は必ず伴います。

ハイエクフリードマンの違い、そこを整理して正しく理解したい。そこにサイモンの「限定された合理性」も重なる気がして、今の好奇心はそこに向かっています。(どうしてこんな目に!)