Réalisation ॐ

永遠の相のもとに 〜 Sub specie aeternitatis 〜

自由のジレンマを解く グローバル時代に守るべき価値とは何か

 少し前から、こちらの本を読んでいるのですが、内容の密度が非常に高い(自分にとって未知の用語や人物名、概念が頻繁に出てくる)のと、あらゆる観点から相対的に検証されているせいか、要点が捉えにくくて苦戦しています。

 だからといって放り出さずに頻繁に手に取っているのは、この本のテーマが、ぼく自身が社会人として抱え続けてきた課題を「どストライク!」で貫いているからです。自由(リベラル)と平等(富の再分配)の構造的なジレンマを改めて整理することができました。

 

※こちらの本はウェブマガジン:シノドスの連載を書籍化したものですが、本に掲載されていない「まとめ」によって理解を助けられました。 

synodos.jp

 

そして、この本のテーマは(新型コロナウイルスの対応で後手に回っている)日本の政治を解説する内容にもなっており、加えて最終章では「イデオロギー、信念」を生身の人間に対する「ウイルス」に例えて説明が展開されています。リアルタイムのニュースとシンクロしているので、尚更深く考えさせられました。

内容を途中までまとめていたのですが、論点を簡潔に整理できなくて挫折・・・ひとまず印象に残った点の備忘録と個人的な感想を残しておきます。

  • 時代のトレンドは流動的人間関係に移行しているが、突き詰めると現代人はリバタリアンにならざるを得ない。資本主義の欠点を補う「富の再分配」を本気で考えると、固定的人間関係が持つルールの正当性も理解できる。経済的弱者に対する「救済」は、どこで線を引くかという運用上の問題から逃れられず「排除の論理」と表裏一体である。
  • 著者が提唱する「リスク・決定・責任の一致原則」は、どんな理念でも(思想として欠陥がなくても)オペレーションに問題があればうまくいくはずがなく、「リスク・決定・責任」が一致していないシステムは駄目になる、というもの。社会主義の失敗から生まれた「新自由主義」や「第三の道」も、資本主義の暴走を制御できていない。
  • 資本主義と流動的人間関係に徹した価値観は、生身の人間としての「疎外」につながる。著者は19世紀の大量生産における労働者の均質化を「喪失による普遍化」、今後の展望を「獲得による普遍化」と名付けて、多様化した社会において異なる複数のアイデンティティーを多層化させることが「疎外」の解決になると提案する。「個と全体」については、実現性が乏しい理想と現実目標を区別して使い分けるために、センの「ニーティ/ニヤーヤ」、カントの「構成的理念/統整的理念」などの概念を紹介している。
  • 「生身の人間=培地、思想や信念=ウイルス」と考えて、多様なウイルスを分け隔てなく取り入れて感染する自由、突然変異や交配によって新しいウイルスを生み出す自由が保証、推奨されるべきで、その淘汰を受け容れることが「自由に対する責任」となる。マルクスの展望した開放的で疎外のない社会「アソシエーション(機能的集団)社会」を期待しながらウイルスを広める活動は「幾世代もの時を経た後で」「遠い将来に」という進化論のような構想になる。

 自分の中ではゲマインシャフト(共同体組織)とゲゼルシャフト(機能体組織)を対立する概念と捉えてきましたが、双方とも社会秩序を健全に維持する目的では一致しています。古い価値観を否定する態度は、相対的に見れば一方的であり、現実の社会問題を解決する上では反作用を招きます。改革の推進側と抵抗勢力の軋轢が生じて、何かしらの判断(スコープ・マネジメント?)をしなければならない中で、自分自身が無意識に「あちら側とこちら側」に線を引いてきたことを再認識しました。

 社会思想や国家の問題に棚上げせず、身近な組織における普遍的な現象として考えると、目指すゴールの具体化が現実的な課題になります。理論的には、厳密な正解を求めるほどジレンマに陥ることが明白で、明確なゴールのイメージではなく、理念を掲げて進化し続ける運動体になることが最適解になりそうです。組織のベクトルを揃えるために、どこか宗教っぽいビジョンも不可欠であり、現実の問題には柔軟に対処する寛容さ、中庸が求められます。(こんなに抽象的な結論になるとは思いませんでしたが・・・「世の中は理屈じゃない」ことを理屈で理解させられました。。) 

 デジタル化の推進で「世界が変わる」ことを信じて、実際に社会の変化と共に歩んできましたが、少し生き急いだか?との反省もありました。しかしその一方で、これまでやってきたこと、自分のポリシーがあながち的外れではなかったことを再確認できて、過去の偉人の思想による裏付けが得られたことには救われた想いがしています。