Réalisation ॐ

永遠の相のもとに 〜 Sub specie aeternitatis 〜

易経(繋辞伝)とエントロピーの法則

台湾の行天宮という寺院に向かう地下通路が「よく当たる」と有名な占い横丁で、雑談の中で「易に興味がある」と話していたぼくはごく自然な流れで案内されたのですが、そこで「易に興味はあるけど占いは信じない」と面倒臭さを発揮してしまい、結局は占うことを拒否しました。(その際に案内してくれた現地の知人は、それがきっかけで後に知る人ぞ知る「紹介でしか会えない」占い師から見てもらったそうです。)

当時は漠然としていましたが、運(運勢)というものは間違いなくあるものの、姓名や生年月日と因果関係にあるはずはなく、本当に流れを読まなければならない局面で変なバイアスが掛かるのを避けたかったのだと思います。ぼくには直観を大切にしたい、それが理性か感性かはともかく、あくまでも直観に従いたい思いが強くあります。

人生は全く思い通りになりませんが・・・後悔しない決断を心掛けていれば、窮地に立たされても負の感情に支配されずに済みます。ただ、自分にコントロールできない外的要因に大きく左右されることも事実なので、運気に無関心ではいられません。

決定木:ディシジョン・ツリーというものがありますが、意思決定プロセスを俯瞰的に捉えようとすればするほど、易のフォーマットを連想させられます。また、陰陽の並びで複雑な事象を表現する考え方は、デジタル(0,1)表現にも通じるところがあります。

何千年もの古い昔から「変化の法則」が研究されてきた背景を考えると、科学の発展していなかった時代なりに、大局的な知見が残されているのではないかと期待ができます。これが「占いは信じないが、易経に興味がある」ぼくの関心の動機でした。

・・・とは言っても、やはり現実世界の優先順では限りなく後回しにされて、コロナ禍で読書三昧してきた中でも、やっとその順番が回ってきた感じです。長い歴史と共に多くの変遷があり、近代になって「易経」としてまとめられたものにも雑多でつかみどころのない印象は拭えませんでした。

大部分を占める占術的な内容には軽く目を通しただけでしたが、終盤の「繋辞(けいじ)伝(上伝、下伝)」という哲学的な解説がとても印象的でした。

中でも、この記述(対立なければ運動なし)の世界観にはハートを射抜かれました!

 乾坤其易之縕耶。乾坤成列。而易立乎其中矣。乾坤毀則无以見易。易不可見。則乾坤或幾乎息矣。

○乾坤は其れ易の縕(うん)か。乾坤、列を成して、易、其中に立つ。乾坤毀(そこな)はるれば則ち以て易を見る无し。易、見る可からざれば、則ち乾坤或は息(や)むに幾(ちか)し。

 乾と坤の関係が易の核心である、と言ってもいい。乾と坤とが対立することによってはじめて変化すなわち易が成立するのだ。乾坤のうち、どちらかーつがなくなれば、変化すなわち易は成立しなくなる。したがって、あとに残ったものが乾であれ坤であれ、その働きは終息するはずだ。

ぼくの中では、これが「熱力学第二法則」に重なりました。自分なりに解釈すると、

「正反対の意見こそが変化の核心、意見の対立から新しいものが生まれる。対立なくして変化はない。異なる考えを排除すれば変化は失われ、画一化された組織の ” はたらき ” は終息する。」

エントロピーの最大化は「死」を意味します。変化にはポジティブな成長や発展だけではなく、衰退などネガティブな結果も含まれますが、死なない限りは(理論的には)挽回が可能です。

変化を避けてリスクを負わない選択(現状維持)が賢いかのような価値観、一般的な感覚としてはそれが正常なのでしょうが、ぼくには「安定」に危機感を抱いてしまう感覚が根強くあります。これには本当に泣かされてきましたが、この悠久の叡智からは、やさしく受け止めてもらえた気がしました。本当のところは誰にもわかりませんが、今は穏やかな気分です。

 

【追記】

こちらは哲学や思想としての解説本だったので、更に理解が深まりました。「善く易を為(おさ)むる者は占わず ー すぐれた易学者はうらないはしない ー 荀子

そして、こちらの著者(氷見野良三氏)はこの度、日本銀行副総裁に就任されました。

善く易をおさむる者は占わず
自分が現在置かれている状況は自分自身ではなかなか分からないから、筮竹(ぜいちく)を執って、その告げるのに従って、「自分は現在どの卦に相当する状況の中で、どの交に相当する位置にあるか」を考えるのが占いだ。しかし、占わずに自分で状況を判断できるのが本筋だといわれる。 荀子は「善く易を為る者は占わず」といった(大略篇六十七)。公田連太郎は先生の南隠禅師から、「うらないをして見なくては分らぬようなことでは、とろくさい」と言われたという。