Réalisation ॐ

永遠の相のもとに 〜 Sub specie aeternitatis 〜

政治の本質

 初版1939年の古典、マックス・ウェーバー「職業としての政治」、カール・シュミット「政治的なるものの概念」の日本語訳でほとんどのページ数が占められており、末尾に訳者である清水幾太郎氏の解説が何遍か収録されています。

 どうしてこの本を手に取ったかと言えば、まさに「政治の本質」とは何か?を知りたかったからなのですが・・・両者の主張は全く方向性が異なっていて噛み合わず、訳者の解説も「政治の本質とは何か?」を単純明快にまとめてくれてはいませんでした。突き放されたような、消化不良な読後感だけが残りました。

 もやもやした感想を抱えて、これだから文系は・・・と恨めしく思っていたのですが、読後1カ月余り過ぎた頃にようやく自分なりに消化できた気がします。

 

 マックス・ウェーバーは有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の著者です。特に印象的だったのが「心情倫理」と「責任倫理」の区別でした。(※「心情倫理」については、後に「信条倫理」と訳した方が適切との指摘もあったようです)それぞれの「正しさ」は経験的に理解できますが、両者は必ずしも合理的に織り合うとは限らない中で、マックス・ウェーバーは以下のようにまとめています。

心情倫理と責任倫理の矛盾を乗り越えるためには、責任倫理を貫く人間が心情的に「我ここに立つ」と言い切る時、責任倫理と心情倫理が絶対的に対立するものではなくなる。

 政治家の内面的な成長、両者を統合する大きな理念の創造といった「高み」が矛盾を乗り越える方策であること、その提案のベクトルには共感を覚えました。

 一方で、カール・シュミットはこれも有名な「友・敵理論」の提唱者ですが、ぼくは過去に、この「理論」に抗いたい一心で少し調べたことがありました。彼の思想の入門書を読んだ限りは2度の世界大戦の前後に変遷があり、生涯一貫して主張し続けた持論というわけではなかったようです。また国家間の紛争を想定した「限定された」政治論として読まれるべきで、身近な人間関係などに引用するのは拡大解釈になります。

 いずれにしても、カール・シュミットの「友・敵理論」は現実主義に徹しており、マックス・ウェーバーのような「倫理間の葛藤」などは微塵も感じられません。おそらく両者の決定的な違いは、政治という営みとそれに関わる人間の関係性にあり、葛藤しながらも人間性を失って欲しくないマックス・ウェーバーと、端からそんな余地はないと考えるカール・シュミットの「異なる政治観」にあるのではないかと感じました。

 

 全ての政治家が「我ここに立つ!」と使命感を持つのが理想であり、その姿勢ならば異なる文化も価値観も飲み込んで許容していけるはずですが、現実の歴史は互いに踏みにじられ、互いを踏みにじる行為の繰り返しです。そこでの葛藤や駆け引きが「政治の本質」なのではないかと腹落ちしました。

 少し脱線しますが、東洋哲学での統治理論は「性善説:徳治」と「性悪説:法治」の対比で語られますが、特に法治主義に至る「墨子荀子韓非子」の系譜などは、この「政治の本質」の議論に重なる部分があるように感じられます。

 ぼくの中では「政治の本質とは何か?」と問われたら「より良い全体像にまとめ上げるために様々なパラメータをいかに調節するか」であり、それが「時代の変化に伴う最適なバランスの終わりなき追求」であるために明確に定義できないと納得できました。そして(苦手としていた)政治的なアプローチもパラメータのひとつ、調整の対象として飲み込もうとすることが、現実の世界における終わりなき闘いになるのでしょう。