Réalisation ॐ

永遠の相のもとに 〜 Sub specie aeternitatis 〜

カントリー・ジェントルマンな視点

白州次郎 しらすじろう(1902〜1985)終戦連絡事務局参与、東北電力会長
 白州次郎氏については現存する資料は限られており、それらを断片的に読んで得た知識でしかない。しかし業績云々以上に、残されたエピソードの数々、裏話から感じられる「人間性」は非常に興味深いものである。
 17〜26歳をイギリスで過ごし「日本語よりも英語が得意」だった白州氏にとっての価値観は、当時の日本人の常識からはかけ離れたものであったに違いない。確かに戦後の活躍をもたらしたものは、留学で身につけた国際的な感覚であっただろうが。それ以前に「人間としての美学」として英国文化から吸収したものが、大きな要素であるような気がしてならない。

 氏について、客観的な事実を並べると・・・

1902 芦屋の大富豪の家に生まれる。
     中学生のうちから外車を買い与えられ、神戸の街を走り回る。
1919 ケンブリッジ大学クレアカレッジに留学。
     やはり2台の高級車を買い与えられ、カーレースに熱中する。
1928 家業が傾き、留学を中断して帰国。
1929 正子夫人と結婚。新聞社、商社などに勤め、一年の大半を海外で
     過ごす。そんな中で、駐英大使だった吉田茂との親交を深める。
1940 日本の参戦と敗戦を予測し、職を辞して現在の町田市に隠居。
     茅葺き屋根の農家を購入して、畑仕事に精を出す日々を送る。
1945 外務大臣となった吉田茂に請われ、終戦連絡事務局の参与となる。
     日本政府とGHQの交渉役として語学力を活かし堂々と渡り合う。
1946 GHQ草案の日本国憲法の翻訳作業に携わる。
     天皇の地位を「国家の象徴」と訳したメンバーのひとり。
1948 貿易庁長官に就任。輸出強化を説き、通商産業省への改変を行う。
1950 平和条約の交渉に吉田首相の特使として渡米。
     後の首相宮沢喜一が大蔵省秘書官として同行していた。
1951 電力再編成に取り組み、東北電力会長に就任。
     サンフランシスコ講和会議に全権団特使として派遣され、当初
     英語で行う予定だった吉田首相の演説を日本語に変えさせる。
1959 東北電力会長を退任し、第一線から身を引く。
1976 軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事となり、運営に情熱を注ぐ。
     管理/整備と共にマナーにも目を光らせ「顔」として君臨する。
     80歳を過ぎるまで愛車のポルシェを自ら乗り回した。
1985 逝去。「葬式無用、戒名不用」の遺言通り、葬儀は行われず。


 細君で作家の白州正子氏が書き遺したものの中に、イギリス留学中に影響を受けたであろう「カントリー・ジェントルマン」についての記述がある。

 地方に住んでいて、中央の政治に目を光らせている。
 遠くから眺めているために、渦中にいては見えないことがよくわかる。
 そして、いざ鎌倉という時は中央へ出て行って、彼等の姿勢を正す。

 海外経験で日本の実力をよく認識していた氏は日本が戦争したら必ず負けると予言し農村生活に入った。それは同じに「カントリー・ジェントルマン」としての価値観を貫くその後の生き方につながっていく第一歩だったと言える。

「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない」と占領下でも毅然とした態度を貫き『従順ならざる唯一の日本人』とGHQから恐れられた。
 その反面、GHQの言いなりで動く日本の政治家や外務省に対しても厳しく批判したため、双方から煙たがられる存在であったという。
 占領期間中、ひとりGHQに楯つきながら『自分は必要以上にやっているのだ、占領軍の言いなりになったのではないということを国民に見せるためにあえて極端に行動しているのだ。為政者があれだけ抵抗したのだ、ということが残らないと、後で国民から疑問が出て必ず批判を受けることになる』と漏らしたという。

  • ホイットニーGHQ民政局長に「英語がお上手ですね」と誉められた際、「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と切り返した。
  • 一方的な憲法草案の押しつけに「ジープウェイ・レター」と呼ばれる私信をGHQに送りつけ、方針の変更を求めた。
  • サンフランシスコ講和会議で、当初英語で行われるはずであった首相演説の原稿(米国への感謝が主な内容)を見て「冗談いうな」と沖縄返還などの要求を盛込んだ日本語演説に変えさせた。(毛筆で書かれた巻紙を読み上げたことから、当時の米国では『トイレットペーパー演説』と評された)
  • 同会議に向かう機内ではTシャツにGパン姿で過ごし、到着寸前にスーツに着替えたという。また帰国後は「僕は政治家じゃない」と代議士になるどころか、政治の表舞台には二度と出てこようとしなかった。


 軽井沢ゴルフ倶楽部では従業員やキャディーをいたわり、会員の我が儘な振舞いを一切許さなかった。相手が誰でも決してルールを曲げず、マナーを守らない会員は容赦なく怒鳴り付けたという。

  • あるゴルフプロがすれ違う際に、何か声を掛けようと放った言葉に一言。「調子はどうですか、白州さん」「そんなこと、君に言う必要はない」
  • 「田中がこれからプレーをしたいと申しておりますので、お願いします」「田中という名前は犬の糞ほどあるが、何処の田中か」「総理の田中です」「それは会員なのか」と、以前から親交があった当時の田中角栄首相を追い返してしまった。その後ロッキード事件の容疑者となった際には、「彼を叩くのはいいが、なぜ過去に英雄扱いしたことへの訂正とお詫びを載せてからにしないのですか」と大新聞社の社長を詰問したという。
  • 「運転手を待たせてゴルフする奴なんか、ゴルフをする資格はない」と普段から言い、座席にふんぞり返って運転手にスパイクの紐を結ばせている者を駐車場で目撃すると「てめえには手がねえのか」と怒鳴った。
  • 「人間は地位が上がったら『役損』を考えろ」と公私を区別せず「役得」を求めようとする人々を戒めた。


 本人が直接語った言葉として、遺されているインタビュー記事がある。
 白州次郎という人物の価値観が総括されているので、これを引用する。
〜なぜ百姓仕事がすきなのか?
『少しキザな言い方だが、百姓をやっていると、人間というものが、いかにチッチャな、グウタラなもんかということがよくわかるから。』
〜あなたのものの考え方には、古風なところがあると思うが?
『ボクは人から、アカデミックな、プリミティブな正義感をふりまわされるのは困る、とよく言われる。しかしボクにはそれが貴いものだと思っている。他の人には幼稚なものかもしれんが、これだけは死ぬまで捨てない。ボクの幼稚な正義感にさわるものは、みんなフッとばしてしまう。』

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