Réalisation ॐ

永遠の相のもとに 〜 Sub specie aeternitatis 〜

大いなる道 下村湖人

 下村湖人 しもむらこじん(1884〜1955)作家、社会教育家

 下村湖人は『次郎物語』のあとがきにこのように記している。
「私は、これまでに、何冊かの本を書いたが、もし、一生のうちに一冊だけしか本を書けないものだとしたら、私は恐らくその一冊にこの『次郎物語』を選んだであろう。それほど私はこの本が書いてみたかったし、書いておかなければならないような気がしていたのである。」
 自分も、一生のうちに一冊だけしか本を読めないものだとしたら、少年の頃の自分にこの『次郎物語』を買い与えたいと思う。


 そろそろツッパリ(死語?)になろうかな、と思っていた頃だった。「次郎物語」と出逢い、自分の生き方について考える機会を与えられたことで、そんな子供じみた自己主張に走らずに済んだ気がする。
 自分と次郎は、境遇が似ていた。
 思春期と呼ばれる時期が本当に感受性の一番高い時期だとしたら、この物語を読んで感銘を受けたことは自分自身の人間形成に少なからず影響を及ぼしているはずである。
 ひとつの事をじっくり考えて、自分の中で答えを出してから前に進む。
 ただのちゃらんぽらんな子供だったのに、そんな姿勢が身についたのはきっと自分の置かれていた状況と、その中で読んだ「次郎物語」がハマリすぎていたからに違いない。
 これまでいろんなものに出逢い、影響されて来てはいるんだろうが。
 そこへと通じる「道」へと自分を導いたのは下村湖人そのひとである。
 「次郎物語」の中にこんな一節がある。
 次郎は病床の母にスープを飲ませてやろうと、こづかいをはたいて牛肉の細切れを買う。母は涙し、家族はなんと親孝行な息子だろうと誉める。いいことをした、と酔いしれた気分になった次郎だが、普段誰よりも理解者であるはずの祖父が冷たい目で自分を見ていることに気付き、頭から水をかけられたような気分になる。それから何日もそのことが気になり頭から離れない、というような内容だったと思う。
 東宝が映画化した際、この場面が使われているのだが、家族に誉められた次郎がはにかんだところでシーンが切り替わる。下村湖人が言いたかったであろうことが何も表現されておらず、観ていて憤慨した記憶がある。

次郎物語(上) (新潮文庫)

次郎物語(上) (新潮文庫)

次郎物語(中) (新潮文庫)

次郎物語(中) (新潮文庫)

次郎物語(下) (新潮文庫)

次郎物語(下) (新潮文庫)

 
「青年の思索のために」を手にしたのは、社会に出てからだった。
「はたらく」ということの本当の意味を教えてくれたのはこの本だった。
 就職していろんなことに失望していた時に、なにか救いを求めるような気持ちでこの本を読み、逆に自分自身が戒められたような気がした。
 不幸にして当時は上司に恵まれていなかったが、この本を何度も何度も読み返し、自分の仕事についての姿勢を正す機会を得ていたと思う。 
 ひとつのものごとであっても、見る角度や立場を変えた場合、全く別の側面が現われてくる。当り前のことであるが、この本にはそんな「ものの見方」で、世の中のことが暖かくも厳しい言葉で評されていた。
 そして分かったのは、人間として、技術者としての自分の未熟さ。
 20代を「青年期」とするならば、自分の生きるスタンスを模索し続けた時期だったと思える。「青年の思索のために」は、下村湖人が30年前に自分のために書き遺してくれた本だと思いたい。
[新装版]青年の思索のために

[新装版]青年の思索のために

 
論語物語」については、影響を受けたというより、内容に共感しながら下村湖人の精神を「確認」するような感じで読んだ。
 自分は「論語」に関しての知識は全くなく、湖人が論語をこよなく愛し、その精神の実践者であったことを、この本の解説で知った。
 しかしこの本にあるのは論語ではなく、やはり「下村湖人の精神」だった。
 孔子を主人公にし、論語の一節をモチーフにしてはいるが、大きく脚色されており、それを書いたのは誰であろう下村湖人そのひとである。
 論語という「記号」から昇華された物語は、湖人からのメッセージとして、もはや孔子の手を離れたものとして受け取るべきものだと感じた。
 偉大な道徳者/求道者である下村湖人が過去に生存していたということだけでも、自分には生きていく上での希望/目標になる。
 孔子も湖人もそれぞれ別の時代に生き、既にこの世にはいない。
 それでも尚、その精神が語りつがれているのは「普遍的に」人間として大切なもの、追い求めていくべきものだからなのではないだろうか。
論語物語 (講談社学術文庫)

論語物語 (講談社学術文庫)